Prologue/Dialog.

日の差さない部屋に彼は居た。その部屋には窓は無く、故に昼夜問わず、薄暗い。唯一の光源は、時折揺れる、ランプの中の炎だけ。小指の先ほどのそれは、頼りなく。明滅を繰り返すように、ゆらゆら。ゆらゆら、ゆらゆらと揺れている。危うげな明かり、今にも消えそうに。風も無いのに、揺れている。

全容の知れないその部屋で、彼は静かに、本を読む。手のひらサイズの文庫本。何度も読み返しているのだろう。その本にはカバーが無く、古惚けて色褪せて、ページの端は擦り切れていた。その本に余程の愛着があるのか。或いはそれ以外に読む書物を持っていないのか。それは彼にしか分からない。

ぱさり、と。本の貢が捲られる。それは一度に留まらず、二度、三度。それが十数回繰り返された頃だろうか。彼の手が止まった。細く、長く音がする。深呼吸のような、嘆息の音。瞑目するように瞳を閉じ、僅かに顎を上向かせ。彼は呼気を吐いていた。

やがて吐息が終わる頃。彼の瞳は、再び貢を追っていた。添える親指は初め、数ページの位置。読み返している。最初から、また。ぱさり、ぱさりと貢が捲られ、その音がまた十数度に達した頃。再度の嘆息の後に、指は初めの位置へと戻される。何度も、何度も。本の僅か十数貢を、繰り返し彼は読んでいた。

「なあ」

室内に、声。暗闇に反響して、よく響いた。少女の声だ。窓の桟に取り付けた風鈴のような、高く、細く、涼やかな、けれど怜悧さを持たぬ優しい声。

「面白いのか、それ?」

続けられる言葉に、返答は無い。彼は無言で貢を捲る、ぱさりぱさりと十数度。そしてその音が止み、嘆息の音を響かせ。

「面白いよ」

答えた。錆付いた金属を擦り合わせた様な、低く、擦れた、重々しい声だった。視線を暗中の一点に向け呟かれる言葉は独り言のように、

「とある男の手記のかたちを取った、ほんの十数ページの掌編。そこには自分をつけ狙う人喰いに恐れる様と、禁忌に対する憤慨。自分もその一味であると気付き、苦悩する姿が描かれている。けれど、ね。それだけじゃない気がしているんだ」

きっとそれだけじゃないんだよ、言って、だから、と続ける。

「だから何度も何度も読み返すんだ。何度も何度もね。その意味が見えるまで。何かを得ることが出来るまで」
「違うよ。私が聞きたいのは、そう言うことじゃない」

けれども声は否定する。即座に、間髪入れず。まるで見当違いの言葉が返ってくることを予想していたかのように。聞きたかったのは、それから、少し考えるような逡巡の間が有って、

「そう言う風に、何度も何度も同じところを、ぐるぐる回って楽しいのか、ってこと」
「ぐるぐる回るか。言い得て妙だね」

やがて聞こえた声に、彼は言った。笑っているようにも思えた。しかし揺らめく炎に照らされる顔は、酷く、のっぺりとした風に見えて。そこからは如何なる感情も読み取れない。ぐるぐる回る、か。ともう一度彼は言い、君はどうだい? と声に訊ねる。声は一瞬言い淀み、意味が分からないと不貞腐れた様に言った。

「きみも、同じところをぐるぐると回っているんだよ。何度も、何度もね」

もう一度、意味が分からない、と、声。窘める様な声音で、彼は言う。

「君も、毎日ここに来て、毎日僕と話をして。夜になれば少しだけ眠って、最後に油を足して帰って行くじゃないか」
「夜が分かるなんて驚きだ」
「分かるよ。規則正しいからね、きみは」
「私がいなければ時間すら分からないのか」

ああ、と首肯する彼に、吐息が漏れる。苛立ちと呆れの綯い交ぜになった吐息。うんざりだ、と言わんばかりに。けれども声はすぐに部屋を出て行くようなことはしなかった。閑話休題、彼は続ける。

「君は、何度も何度も同じところを、ぐるぐる回って楽しいかい?」

返答は無い。帰って来たのは、またもや嘆息だった。もういい、と全てを投げ出したかのように声が言って、黙り込む。だから彼は読書に戻った。また同じ話を読み、読み返し、また読んで、ぱさりぱさりと繰り返す。

ぱさり、ぱさり。

ぱさり、ぱさり。

ぱさり、ぱさり。

「なあ」

声が聞いた。

「なんだい?」

彼が答えた。

「その本のこと、もっと聞かせてくれよ」

珍しいね、と彼は言う。少しだけ驚いた顔をした後に、少しだけ笑って、しかしそれすらも無表情に見えるのは、やはりこの部屋に明かりが足りないからなのだろうか。

「だって、話すことも無いだろう?」
「僕はそれでもいいよ」
「私が厭なんだ。だから、なあ、黙ってないで何か話せ」

声の傲岸な物言いに、しかし、彼は何も言わない。空いた右手を顎に添え、何かを考え込む素振りを見せる。本の内容を纏めているのだろう、そう判断した声は、自らも沈黙して無言の数十秒間を待つ。やがて彼は手を離し、

「彼の周りの人は、彼を差してこう言うんだ……『きちがい』だって。タイトルもそう、『狂人日記』と題されている」
「それが?」
「けれど読者たる僕にはね、分からないんだよ。彼が本当に、きちがいだったのか。その確信が得られない」
「そう書かれているなら、そうなんだろうさ」

彼の疑問に、声はそれがどうしたと言わんばかりに否定を返す。断定口調。疑念を挟む余地などそこには無い。なぜなら、声にとっての本は、知識が書かれたもの以外の何物でも無かったからだ。知識は情報の羅列。他人行儀で無機質なそれは、決して声を満たすものではない。故に声は書物を好まず、人と触れ合うことに執心した。人との触れ合いは、声の空虚な心を僅かばかりに潤わせる。そこには“熱”が有るのだ、冷たくは無い。

そう思っての言葉だったのだが、しかしそれは声以外に理解できるものではなく、彼は当然のように首を振った。

「書かれていることが全てではないんだよ。少なくとも僕にとっては」
「そういうものなのか?
「そういうものなんだよ」

そこで僅かな、沈黙の間。何かを考え込むような、思い悩むような。息遣いは緩く、憂鬱な色に満ちている。

「だとしたら……この街も、きっと同じなのだろうな」
「?」
「世界を忘れたのか、世界に忘れられたのか、それすらも分からない」

嘆息のように、声音には憂慮が含まれて。

「人は言うんだ。本にも書かれている。この街には世界が要らなくなった、だから世界を忘れ、失った、って」
「うん」
「けれどそれは、逆なのかもしれないんだよな」

本当のところは、誰も知らないのだから、と彼女は締める。ただ、世界にはもうこの街しか無くて、誰も外の事を語らない、気にしない。覚えているのかどうかすらも、分からない。町を囲う外壁の外を、今や一人として知る者はいないのだ。

声然り。彼然り。

だから、この街が世界を忘れたのではなく、世界がこの街を忘れたのだと……捨てたのだと。その可能性も、否定出来はしない。逆がまたそうであるように。

「きみがそう思うんなら、そうなんだろうね」
「お前は、」

声が何かを言いかけて、止める。彼には何を言っても無駄だと気付いたのだろう。呆れた様に吐かれる嘆息は、しかし、何処か柔らかい。

「もう、いい。もう寝る。ランプは消せ。眩しいと寝られない」
「そうだね、そうしよう」

首肯を返す彼は文庫本を近くに置き、ランプの灯を消した。訪れる、暗闇。やがて彼が決して深くは無い眠りに就こうとしたとき、不意に、

「やっぱり本は、面白くない」

不貞腐れた様に、声。彼は薄目を開けて室内を見遣る。けれど明かりの無い暗闇、誰かの姿は、そこには見えない。諦めた様に目を閉じた。声の続きを待つ。

「そんなものよりも、やっぱり、ひとの方が、面白いんだ」

独白じみた台詞。遮ることを望まれない。故に彼は沈黙を守り、声もまた、そんな彼に構わずに言葉を紡ぐ。

「今度私が、そんなものよりももっと面白い、“ひと”の話をしてやろう」
「……」
「この部屋の外には、“ひと”が居る。触れ合える、話しあえる。一方的な情報伝達ではない、相互干渉の果てに生まれるものもある。そしてそれは、素晴らしい」

言葉は途切れ、だから、と続けられる。

「だから、良かったらいつか――――」

そこで、息を呑むような間。失言をした、と言う空気がありありと伝わってきた。幾分かの深呼吸の後、次にその口から放たれたのは、

「なあ、サビ。明日も、また来て良いか?」

何気ない風を装った言葉。だから、彼が返す言葉は決まっていた。瞳を閉じる。

「いいよ、きみがそう思うなら」

言って、微笑む。優しげな表情は、少しだけ声に安寧を齎した。胸中に熱が灯る感覚。それは胸を焦がす類ではない。穏やかで、優しくて、まどろむような、温もり――――


掻き抱くように、腕を交差させる。温もりはまだ、胸の内に有った。

「おやすみ……アムネジア」

空気を抱く身体に、優しげな声が染み入る。今夜もいい夢を見れそうだ、と彼女は思った。







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